思考整理

東京大学→Software Engineer

生産性の高い時間とは何か

仕事場などでは、生産性を上げろ!とか、生産性を意識して仕事をしろ!といった言葉をよく耳にします。

 

休暇でも、1日を何もせずダラーっと過ごしてしまった日などは、「1日を生産的に過ごすことが出来なかった」や、「もっと生産的なことに時間を使いたかった」などと思います。

 

「生産性」という言葉、分かっている気にはなっていますが、よく考えてみると何を指しているのかが曖昧なのではないでしょうか。

 

また、文脈(職場なのか、休暇中なのか)によっても、意味する内容が変わってくるはずです。

生産性の高い時間とは、具体的に何を指すのか、考察してみます。


 生産性の定義

Wikipediaには生産性は次のように定義されています。

生産性(せいさんせい、Productivity)とは、経済学で生産活動に対する生産要素(労働資本など)の寄与度、あるいは、資源から付加価値を産み出す際の効率の程度のことを指す。

一定の資源からどれだけ多くの付加価値を産み出せるかという測定法と、一定の付加価値をどれだけ少ない資源で産み出せるかという測定法が在る。

つまり、生産性=付加価値/投下資産

で定義されます。

この定義における投下資産は時間やお金、手間などの「コスト」を総称して指し、文脈によって変化しません。

 

一方付加価値というのは、「誰にとって」のものなのか、「どのような背景、環境における」ものなのかによって変わってくる変数であり、職場なのか休暇中なのかで指し示す内容が変わってくる変数となるはずです。

 

職場での生産性とは

職場における付加価値とはなんでしょうか。

まず「誰にとって」、これは難しいですが、最終的には「自社」です。
その一段下のレイヤーに「クライアント」があり、クライアントへの付加価値が、すなわち自社の利益に直結します。

 

つまり職場における生産性とは、「自社に対する付加価値」/投下資産

と定義されます。

休暇中(自分の時間)での生産性とは

自分の時間では、自分が勤める会社の話は登場しません。
では自分の時間における付加価値とは、「誰にとって」のものなのでしょうか。

これは家庭環境や取り組む内容によっても変わってきますが、「一人暮らし」で、「自己研鑽」のための活動を例にとると付加価値の対象は自分です。

この場合、生産性は「自分への付加価値」/投下資産

と定義されます。

生産性を上げるために出来ること

生産性というものが「誰にとって」の付加価値なのかを考えることによって定義することが出来ましたが、これでは粒度が大きすぎて日常のアクションに落とすには距離が大きすぎます。

休暇中を例にとって、生産性を上げるには具体的に何が出来るのか?という観点でブレイクダウンしていこうと思います。

 

「自分への付加価値」とは、自分の人生におけるどういった項目に対する付加価値なのでしょうか。

人生には、仕事、遊び、恋愛、趣味など多様な要素が絡み合って存在しています。

今回は、「仕事」に絞って考えてみましょう。

 

「自分の仕事への付加価値」とはなんでしょうか。

「仕事が出来る」状態に近づくこと、と定義して問題ないでしょう。

仕事が出来るという言葉がまた抽象的で、自身の仕事内容によって具体的なスキルセットやマインドセットに更に分解されるはずですが、ここではあえて「仕事が出来る」という抽象度でも共通する内容に止めようと思います。

 

どの職業でも「仕事が出来る」状態に近づくために必要なのは、「改善」です。
出来ないことが出来るようになることによって、「仕事が出来る」状態に近づきます。

「改善」を図るための指標は、「変化」です。
その時間によって、自分自身の行動、変化にどのような「変化」があったのかを計測することで、生産性を確認することが出来ます。
(もちろん、今まで出来たことができなくなってしまっても「変化」にはなってしまうので、ここでは改善の結果プラスの変化が現れていることを前提としています。)

 

ということで、僕は毎日、その日1日で自分自身にどのような「変化」が起こったのかを記録し可視化することで、「生産性の高い時間」を過ごせるようにしています。

 

ブログを書くことで、「文章を書くことへの苦手意識が薄れてきている」という変化があり、嬉しい今日このごろでした。

成功者の発言の真意

 

 

ビジネスで成功した人のインタビュー記事を見ると、「この仕事が大好きだ」「毎朝起きると、この仕事が出来ることが幸せでたまらない」などの発言をしている人が多いように感じます。

 

そういった記事を見ると、仕事をすることに嫌悪感を抱いてる自分と比較して、「こんなふうに仕事を好きになれない自分じゃダメだ」とか、「やっぱり成功する人は天職に巡り会えた人なんだ」などと思ってしまいます。

 

 

こういった成功者の発言を、素直に額面通りに受け取ってしまうとこういった思考に陥りがちですが、見落とされがちだけど注目しないといけない点が2点あります。

 

 

この2つの点をしっかりと考慮することで、自己嫌悪に陥ること無く、前向きな心を保つことが出来るようになるので、ぜひ一考してみてくださいね!

 

 

  1. 「仕事が楽しい」と言っているのは現在であり、昔からずっと「仕事が楽しい」と言っていたとは限らない

物事には歴史があり、時系列で捉えなければ本質を捉えることが出来ない場合は数多くあります。

 

成功者を見ると、成功者の現在にフォーカスをあててしまい、その背後にある歴史に目を向けることは蔑ろにされがちです。

 

成功者が成功者たる所以は、背後にある膨大な努力です。

 

彼らが膨大な努力をしている時、仕事を始めたばかりで右も左も分からない時、彼らは「この仕事が大好きだ」と言っていたでしょうか?

 

「この仕事が大好きだ」と言えていない自分は、彼ら成功者と同等の膨大な努力を積み上げた状態でしょうか?

 

辛く厳しい鍛錬を乗り越えて彼ら成功者の今があることを見落としてはいけません。

自分が辛く厳しい鍛錬の途中にあるとするならば、成功者の発言は現在の自分の思いと比較するのではなく、3年後、5年後の未来の自分の思いと比較するべきでしょう。

 

現在の自分と比較して自己嫌悪に陥るより、努力の先にある姿としてモチベーションに変えてしまう方が、よっぽど有意義ですよね!

 

  1. メディアとして取り上げられる場で、必ずしも本音を話すとは限らない。

 

彼らには立場があり、彼らの発言は彼らの立場と関連付けられて読み手に理解されます。

読み手は彼らのクライアントかもしれないし、彼らの会社への就職を目指す若き学生かもしれない。

そういった読み手が、自分の発言を聞いてどう思うのか?

そういった読み手に、自分の発言を通じて、どう思わせたいのか?

 

メディアとして対外的に発信される以上、上記のような情報の受け手の感情を考慮しながら彼らは発言をしています。

 

その発言には、本音ももちろんありますが、その上に意図がかぶさっている場合がほとんどでしょう。

 

私達が見ているのは、あんぱんのぱんであり、本音というあんは、意図というぱんに包まれている可能性が高い。

 

このように書くと、「じゃあビジネスの成功者は、本当は仕事を楽しいと思っていないのか」と言われるかもしれませんが、そうではありません。

 

あんぱんのぱんは、非常に薄いぱんで、ほとんど中のあんこが透けて見えている状態、が僕の予想です。

 

表面には意図のコーティングがなされているが、嘘をついているわけではないでしょう。そこを勘違いしてはいけません。

 

ただ、もう一つありえる仮説としては、彼らは「仕事が好きだ」と対外的に公表することで、自分に暗示をかけているという考えです。

 

思いを言葉にするのではなく、言葉を発することで、自分は本当にそう思っているんだと思い込むことを利用しているのではないでしょうか。

 

 

 

まとめます。

・成功者の発言を額面通りに受け取らない。
・背景の努力に目を向ける。
・発言の聞き手の感情を意図して発言していることに目を向ける。
・もしかして、発言することで自己暗示をかけているのかも?

世の中には凄い人がたくさんいるが、その人のどの時点を見ているのかが大切

今日はお世話になっている就活サービスの先輩方と飲みに行く機会がありました。

 

その就活サービスの人達は本当に頭が良いな、よく考えているなと思わせられることが多く、自分は発言して「こいつ馬鹿だな」と思われるのが嫌で発言できずにいました。

 

しかも彼らは文系で就職活動を既に終えているので、理系院生の僕から見ると年下だったりします。

 

僕は能力があれば年齢なんて関係ないと心の底から思っていますが、それでも自分より人生を長く生きていない人が自分より深く考えていることを実感すると凹むのは事実です。

 

でも、そこで凹んで終わらないのが、大事なこと。

 

凄い人を見ると、「この人は頭が良いんだなあ」とか、「自分と違って、普段からちゃんと物事を考えて過ごしているんだろうな」とか、「天才なんだろうなあ」とか、思います。

 

その人の、「現在」とか、「生まれ持った才能」とかにフォーカスをあてて考えてしまいがちです。

 

その人の、「過去」とか、「努力」とかにフォーカスをあてるべきなはずなのに。

 

人はつい、凄い人を見ると、その凄さの要因を「才能」に求めがちです。

 

その方が楽だから。

 

もっというと、「才能」に依拠することで、すごくない自分を正当化出来るから。

 

 

「才能は、自分の力で変えることは出来ないから、自分がすごくないのは仕方がないことだ」と考えると、正当化出来るから楽なんです。

 

僕の、凄い人を見た時の考え方は基本的にこれでした。

 

「凄い人はいるもんだなあ」
「自分より能力の高い人はいっぱいいるんだなあ」

 

でも、上司はこう言います。

 

「キミが今現在出来るかどうか、能力があるかどうかはどうでもいい。」
「事業を前にすすめるために、結果を出すために努力が必要なら、やるしかない。」

アンジェラ・ダックワース著 「やり抜く力 GRIT(グリット)」にはこうあります。

 

大きな成果を出した人の多くは、必ずしも才能に恵まれていたわけではない。成功するために大切なのは、優れた資質よりも「情熱」と「粘り強さ」――すなわち「グリット(GRIT)」=「やり抜く力」なのだ。

 

 

成果を出している人、凄いと思う人は、努力をしています。

 

その人がどれくらいの努力をして現在の能力を手に入れているのかを考えないと、努力をしていない自分とただ比較するのでは意味がありません。

 

努力していない自分と努力した凄い人を比較して凹むのは全く意味がありません。

 

努力すれば良いだけの話ですから。

 

凄い人に気落ちしても何も変わらない。時間の無駄なので、今日もこうしてブログ記事を一本書き、凄い人になるための努力に勤しみます。

 

面白さとは何か

コミュニティごとに、何人かは「面白い人」っていますよね。

こいつホントに面白いなあって人は、だいたい人気者で、飲み会で重宝されるタイプの人が多い気がします。

あと、モテる。
やっぱり女の子的には面白い人の方が良いんでしょうかね。

 

僕も面白い人間になりたいなあと思うことは多々あるんですが、なかなか上手くいきません。

飲み会で場を盛り上げるような発言をしようと思って取り組んでみても、ややウケで微妙な空気になるのがオチです。

 

そもそも、人はどういった要素に対して「面白い」と思うのでしょうか。
これがわかれば、僕も面白い人間になれるかもしれません。

今日は、「面白さ」について考察してみようと思います。

 

 

 

1.ケーススタディ:お笑い芸人

面白い人と言えばお笑い芸人。
お笑い芸人がどういった話をしているのかを分析してみます。

漫才を例に考えると、お笑いの基本は「ボケ」と「ツッコミ」で構成されています。それぞれについて考えていきましょう。

1-1.「ボケ」について

いろんなお笑いのボケの共通点としては、「普通」とは違う発言であることです。
予想できないような発言だからこそ面白いのでしょう。松本人志さんも笑いは期待を裏切ることだと言っていたような気がします。


「普通思いつかないような、期待を裏切る発言であること」は笑いの1つの条件でしょう。

疲れたので今日はこのへんで。

他人事のように考える

皆さん、恋愛相談に乗ることはありますか?

友達の恋愛相談に乗る時って、決まって「こうすればいいのにな~」と思うし、男友達だったらウジウジしてないで連絡しろ!ってを実際に伝えたりします。

だいたいみんな「でもそんなことしたら嫌われるかも…」とか言うけど絶対連絡した方が良いと思うんですよね。じゃないとそもそも始まらないし。
そして違う人の恋愛相談に乗るとまた同じようなことで悩んでるんですよね。またかよと。

…と、こんなふうに偉そうに言いたいことを言っているわけですが、
自分が実際恋愛する立場になったときって、彼らと同じような悩みを抱えちゃうんですよね


僕もそうです。嫌われるかもって悩みます。友達には「行動しないと始まらないよ!」とか言ってたのに行動しない。始まらない。

こーゆーことって日常でよくあると思うんです。


ハタから見てて思ったことって実際当事者になると出来なかったりするんですよね。


日本のことわざに「岡目八目」というのがあります。
これは囲碁が語源の言葉で、端から見ていると、実際に囲碁を打っている人よりも八目先まで手が読めるというものです。


当事者として必死になってる人より傍観者のほうが周りがよく見えるということですね。



このことを頭に留めておくと、自分が目の前のことに必死になって周りが見えなくなっているのではないかという視点が生まれます。

自分を客観視することはなかなか難しいですよね。

岡目八目を意識して、自分事を他人事のように考えるようにしたいものです。

英語は勉強するべき?

英語って大事ですよね。

社会人になって昇進するためにはTOEICが必要になるところが多いし、就職活動のためにTOEICの点数を聞かれたりと英語が大人気です。

 

こんなに英語が人気な背景には、やはりグローバル化があるのでしょう。
人間の移動にかかる値段はどんどん安くなり、国境を超えるハードルは下がる一方で国を超えた人の移動は増える一方です。

 

渋谷なんかに行くと歩いてる人の半分くらいは外国人なんじゃないかって気がします。
渋谷の回転寿司屋さんに至っては外国人しかいません。

 

 

これだけ外国が身近になった今、世界共用語(と言われている)英語の市場価値が高まるのは当然のことなのでしょう。

 

これからの未来で食いっぱぐれないために、やはり英語を勉強すべきなのでしょうか?

 

まず真っ先に思いつくのは、人工知能の発達による自動翻訳機ができるのでは?という懸念です。

 

個人的な考えですが、五年以内には完璧に近い同時翻訳機が市場に流通し、外国企業との商談も翻訳機を通して母国語で行えるようになるのではないかと思います。

 

現在でも既に同時翻訳機が売り出されはじめているのですから、完璧な商品が出来るのも時間の問題でしょう。

 

では、五年後を見据えると、英語を勉強するのは無駄になるんでしょうか?

 

 

同時翻訳があるんだったらわざわざ不得手な言語でコミュニケーションをとる必要もないのでは?

 

 

でも、同時翻訳機ができたとしても、やっぱり生身のコミュニケーションの方が気持ちが伝わると思うんですよね。

 

商談とかでも、ちゃんと英語を勉強して、英語を話してコミュニケーションした方が上手くいくんじゃないかって。

 

あともう一つ。同時翻訳ができてみんなが英語を勉強しなくなった中で、英語を話せたらそれって希少価値になるんじゃないでしょうか。

 

競合他社が機械に頼って商談しているときに、英語で商談ができれば有利なんじゃないかって思うんです。

 

同時翻訳があるからこそ、英語を喋れることの価値が上がる未来もあるかもしれません。

 

と、思いつつ、英語を勉強するべきか迷っている今日このごろでした。

人を頼るということ

こんにちは。

みなさん、人に助けてもらってますか?


学生のうち、特に研究室に入る前の授業に出てレポート書いて試験を受けるだけのときは人(特に目上の人。同級生は除く)に助けてもらう必要性はそんなに多くないと思います。


しかし研究室に配属されると1人で研究を出来るほど知識があるわけでもないので必然的に先輩や教授を頼って彼らの力を拝借して研究を進めていくことになります。


会社に入っても同じだと思います。
シゴトって1人じゃできないですよね。互いに協力しあって進めていくものだと思います。


自分の能力が至らないとき、人に頼ることは絶対に必要なスキルですが、僕はこれがものすんごく苦手でした。


研究で行き詰まっても先輩に聞くことがなかなかできず、かと言って自分一人で進めることもできず時間を無駄に浪費するということをしていました。。。


そんなの聞けばいいじゃんと思われるかと思います。僕もそう思います。でもそれができないのには理由があるんです。


それは受験勉強で培った「正しい答えを知っていないといけない」という潜在意識です。

私は高校受験、大学受験と人生で2回の受験を経験しましたが、そのどちらでも塾に通い、塾では正しい答えを言うことを求められていました。


塾の先生が「この辺の長さは?」と聞いてきたらその辺の長さの正しい値を答えることが正義であり、間違えることは悪なのです。

答えを間違えてしまったらしまったという気持ちになるし、次は間違えまいという気概を持ちます。


こうして「間違ってはいけない」という気持ちが知らず知らずのうちに蓄積されていき、人に質問することで自分の誤り、理解の至らなさが露呈することを恐れるようになってしまったのです。


このような間違えたくないというプライドは長年かけて形成されたもので、容易に変えられるものではありません。


しかし社会に出ていくのであれば、(研究室に残りアカデミックに進むのも同様ですが、)人を頼り、自分の過ちを指摘してもらうことは絶対必要です。

自分のためにも、意識的に改善することは急務です。

僕は現在、分からないことは意識的に質問するようにしています。
もちろんものすごく抵抗がありますし、こんなこともわからないの?と思われているんだろうなという気持ちもあり心中穏やかではありません。


ですが、このまま社会人になって1人で解決しようとして破滅する道を歩むことに比べたら屁でもないですね笑


がんばって自分を変えていきましょう。