思考整理

東京大学→Software Engineer

世の中には凄い人がたくさんいるが、その人のどの時点を見ているのかが大切

今日はお世話になっている就活サービスの先輩方と飲みに行く機会がありました。

 

その就活サービスの人達は本当に頭が良いな、よく考えているなと思わせられることが多く、自分は発言して「こいつ馬鹿だな」と思われるのが嫌で発言できずにいました。

 

しかも彼らは文系で就職活動を既に終えているので、理系院生の僕から見ると年下だったりします。

 

僕は能力があれば年齢なんて関係ないと心の底から思っていますが、それでも自分より人生を長く生きていない人が自分より深く考えていることを実感すると凹むのは事実です。

 

でも、そこで凹んで終わらないのが、大事なこと。

 

凄い人を見ると、「この人は頭が良いんだなあ」とか、「自分と違って、普段からちゃんと物事を考えて過ごしているんだろうな」とか、「天才なんだろうなあ」とか、思います。

 

その人の、「現在」とか、「生まれ持った才能」とかにフォーカスをあてて考えてしまいがちです。

 

その人の、「過去」とか、「努力」とかにフォーカスをあてるべきなはずなのに。

 

人はつい、凄い人を見ると、その凄さの要因を「才能」に求めがちです。

 

その方が楽だから。

 

もっというと、「才能」に依拠することで、すごくない自分を正当化出来るから。

 

 

「才能は、自分の力で変えることは出来ないから、自分がすごくないのは仕方がないことだ」と考えると、正当化出来るから楽なんです。

 

僕の、凄い人を見た時の考え方は基本的にこれでした。

 

「凄い人はいるもんだなあ」
「自分より能力の高い人はいっぱいいるんだなあ」

 

でも、上司はこう言います。

 

「キミが今現在出来るかどうか、能力があるかどうかはどうでもいい。」
「事業を前にすすめるために、結果を出すために努力が必要なら、やるしかない。」

アンジェラ・ダックワース著 「やり抜く力 GRIT(グリット)」にはこうあります。

 

大きな成果を出した人の多くは、必ずしも才能に恵まれていたわけではない。成功するために大切なのは、優れた資質よりも「情熱」と「粘り強さ」――すなわち「グリット(GRIT)」=「やり抜く力」なのだ。

 

 

成果を出している人、凄いと思う人は、努力をしています。

 

その人がどれくらいの努力をして現在の能力を手に入れているのかを考えないと、努力をしていない自分とただ比較するのでは意味がありません。

 

努力していない自分と努力した凄い人を比較して凹むのは全く意味がありません。

 

努力すれば良いだけの話ですから。

 

凄い人に気落ちしても何も変わらない。時間の無駄なので、今日もこうしてブログ記事を一本書き、凄い人になるための努力に勤しみます。